「新反動主義」Part. 3 フォーマリズム
フォーマリズムとは
彼の最初の記事で導入された、ヤーヴィンが作った政治哲学理論 この記事では、ゲーム理論的な分析も行う
ヤーヴィン自身はシェリングポイントなどのゲーム理論の概念に言及したこともあるが、詳しくゲーム理論について論じることはしていない
ネオカメラリズム (Part 2参照) の根拠と思われる
ロック的リバタリアニズムとの比較表
table:locke_vs._yarvin
主唱者 ジョン・ロック カーティス・ヤーヴィン
学説 リバタリアニズム フォーマリズム
所有権の根拠 自然権論 衝突の抑止
所有権の帰属 自己所有権+労働+譲渡 占有・時効取得・実定法
自然状態 比較的平和 "社会的で、縄張り意識が強く、暴力的"な部族社会(*1)
国家の正統性 社会契約 政府による領土の実効支配
権力の分立 自由のために必要 むしろ圧政の原因 (移動型盗賊 Roving Bandit *2)
民主主義 同上 動物の象徴的な争いのような限定戦争と見なす
アメリカ独立戦争 パトリオット 王党派
封建的土地所有 労働の産物ではないのでNG 時効取得でOK (*3)
徴税 自然権の侵害 or必要悪 政府が国土を所有することによる正当な地代
キーワード:主権、リヴァイアサン、所有権、徴税、再分配
名称
フォーマリズムというのは、しかしなんでこんなググラビリティ低い (あと…分かりにくい) 名前付けたんだろう…形式主義法学に由来するらしいけど そんな色々なものとかぶる名前をつけるのはどうなんだと思うけど
フォーマリズムは、政治、法、犯罪、国際秩序、革命 などにまたがる 大きい話なのが(あるいは無理やり色々応用しているだけかもしれないけれど)魅力を感じられるところな気がする
意外と経済との結びつきは不明だね
↓ の論文・記事で紹介されているように、会社としての統治主体、所有権としての政治権力という考えは、歴史上にも見いだせるという意味では、歴史とも関係する
定義
目的のための手段として制度を考える点で (ルール) 帰結主義と言えるかと思って編集前にこの記事にそう書いていたけど、そんなことを言ったら三権分立や民主主義を権利を保護するという目的のために支持するのだって帰結主義になるので、あまり意味がない言い方だった
とりあえず自然権論ではなく、所有権を道具的に捉えている
衝突 (friction) とは誰にでもいくらでも手に入るというわけではない、量に制限のある資源 (scarce resource) を巡って争いが発生することをいう
friction: 衝突、あつれき
friction はリバタリアンの無危害原理 (non-aggression principle) における 危害概念と関係する?
最初はfrictionではなく、同じ概念を暴力 (violence) と言っている
ただし、frictionという言い方が導入されたあとで彼はそれをあまり使っておらず、ずっと彼の政治哲学理論が減らすことを目標にするものの名としてviolenceの方を使っている
これは政府内でのfrictionが政府の外での犯罪や代理戦争 (より文字通りの意味での暴力) に繋がっているという彼の考えに由来するような気がする
violenceでなくfrictionを導入した動機として、violenceのような感情的コノケーションの大きい言葉を再定義して自分が嫌いなものに結びつけるという説得的定義みたいなことをするのは汚いレトリックだから、と言っていて、それはそうだなー と思うけど、結局 violenceの方を使ってしまってるんだね
よく考えると、ヤーヴィンはそう言っている割に かなり説得的定義のレトリック使いまくっている気がするな
結局フォーマリズムの持つ説得力の一部はその「暴力」という言葉が持つ道徳的な含みに依存してしまっているのではないかという気もする (だからこそ かれはfrictionという言い方を導入したあともviolenceという言い方を使い続けたのでは)
ほんとうに政治は物理的な暴力と連続的で、何らかの理由で本当の武力的闘争にエスカレートする可能性がある (とか、現に犯罪や戦争は政治的争いが原因になってる) って考えているからそういう言葉を使っているというのもあるっぽいけど
衝突 = 暴力、とすると内在的に悪いと言ってそうだけど、じっさいは衝突が圧政や犯罪を導いたりするという道具的な悪さが実はあるという主張が主
ヤーヴィンは (民主主義におけるような) 「政治」はfriction / violenceの一種であり、政治は戦争と連続的である (政治とは儀礼化された戦争、限定戦争である) と主張している
no_bear_so_low氏によると、極左と新反動主義は政治的不一致の原因を、集団間のゼロサムな利害の対立と見る (conflict theory) 点で似ている。(no_bear_so_low氏自身は、conflict theoryを支持しているらしい。ということは no_bear_so_low氏は極左なのかな。)
Combined Conflict Theory Measure By Political Affiliation, Ad Hoc Measurement
Alt-right: 0.43
Conservative: 0.30
Liberal: 0.26
Libertarian: 0.27
Marxist: 0.54
Neoreactionary: 0.34
Social democratic: 0.35
フォーマリズムは「政治」 (資源をめぐる対立における勝敗が事前に予測不可能であること) を無くすことを目指す
上記事の文脈だと、政治を戦いをみなす人はそこで自ら争いにくみするという含みがあるのだけど
So when people talk about abandoning democracy, they can mean one of two things. They can mean “screw it, let’s go to the mattresses,” or they can mean abolishing the conflict itself, and designing a system which is based on the rule of law rather than political triumph and defeat. Democratic politics is the middle ground between these options, and I follow Hazlitt (William, not Henry, though they both rock) in refusing to split the difference between right and wrong. This is why I oppose democracy, even though there are many worse alternatives.
「自ら争いにくみする & 民主主義を批判する」グループはここでいう "screw it, let's got to the mattresses"の側に入りそう (ラディカリズム?)
マットレスに行くというのは戦いを準備するという意味の慣用句らしい
ヤーヴィンの民主主義観では、民主主義は動物の儀礼的な争いに似ていると言えそう。動物はお互いを殺してしまうほど争うのではなく代わりに儀礼化された争いで順位や資源、配偶者を争う。たとえばシカのオスは角同士を噛み合わせて争うが、角を相手の体に刺したりはしない。それと似たものとして (…威嚇の方がいい喩えな気してきたけど) 、権力をめぐって、内戦をして争いあう代わり、支持者の数を示威しあうことにとどめているのが、投票と考えている。
ただし、ヤーヴィンは現代の先進国は民主主義の成分をもはやかなり失っており、報道や行政機関、社会科学者、判事が主な実権を持っていると考えているため、現状の政体は純粋な民主主義ほど集団間の争いではないと思ってるはず。現状の政体にも限定戦争の面があるとは考えているけど。
demonstration という言葉が政治的な意味でも軍事的な意味でも用いられるのは、たぶん偶然だろうけども (か?)
軍事デモと政治のデモ
https://www.youtube.com/watch?v=Hkeegxx68zk
「政治は戦争と連続的である」というときには、政治において争われる税収や権力、公職などが、戦争で争われる領土と対応すると考えているのだろう
それは政治をもっぱら再分配的なものと捉えていて、win-winな政治というのが存在しないという考え (それを政治と呼ばない) に当たる気がする
私がここで再分配的といったのは、富める者から貧しい者への再分配に限った話ではなく、政策の実施により現状よりwinになる人と、loseになる人が生じるような政治のこと
マルクス主義的な、階級闘争としての政治という考えに近い?
各勢力が、なにか有限な、決まった量の資源をめぐって争っているというモデルなわけだから
そのような世界では、たしかに政治 (分配の仕方を自分有利にしようとする努力) にかける資源というのは全て社会的には無駄である。
なぜなら、政策は資源を移動するだけで何も増やさないので。そして、対立する両者の資源投下量を同じ分ずつだけ差し引いても勝敗に影響する限りで状況は全く変わらない (両者における等しい資源量の投下が勝敗をめぐる趨勢に対し同じだけの影響を与えるとした場合) ので、それらの無駄な部分の資源投下をなくすという約束をお互いに結ぶことを考えると両者ともに得になる。
両者における等しい資源量の投下が勝敗をめぐる趨勢に対し同じだけの影響を与えるというのは、力の差が無いというような仮定に対応する
じゃあ土地などの生産量が一定の品物の取引も資源を移動しあってるだけで社会的には無駄ということになる!?!? と思った人へ: ここで「社会的無駄」の概念はカルドアヒックス基準とかを使う。
もし資源投下した場合と、お互いに資源投下しなかった場合とで勝敗が結果として同じになるならパレート基準からも無駄とみなせる。
(本当は集団を考えなければいけないけど、とりあえずあたかも2人のプレイヤー (ここでは政党、党派のようなもの) だけが居て、それぞれにunitary actor assumptionが成り立ち、それぞれが資源を投下した量に応じて勝ったり負けたりするというようなモデルに置き換えている。そうしないと戦争とのアナロジーで考えられなそうだし?)
そのような世界では、「誰も政治を行わない」という社会契約を結べば、みなが得するかもしれない
政治についての再分配/レントシーキング的な見方「政治は財を再分配することはできても、新しく生産することはできない」
ayu-mushi.iconしかしじっさいには、投票を介した民主政治のプロセスが、自由市場における取引/契約と似たように、パイを増やす生産的役割を果たすということはあり得るはず
以下の反論は、ヤーヴィンが税収・公職・権力を求める争いと言っている (と思う) ところを、政策をめぐって政治活動をするものとして置き換えてしまっているけど
たとえば「課税してそれによって何らかのサービスを提供する」ということは、もしそのサービスが公共財である場合、決まった量の資源の再分配にすぎないものではなく、それによってパイ自体が増える可能性があるので、領土問題のようなゼロサムの争いに関してはフォーマリズムを受け入れるべきであるとしても、かならずしもお金について同じことが言えるとは限らない もちろん、公共財以外の提供にもwin-winな政策というのはあり (所有権の保護、契約を守らせること、市場の失敗の解決など)、この反論はそういうwin-winな政策一般を念頭に置いているものとして読んでほしい
一般にあまり対立がないものは「政治」と呼ばないがちな傾向がありそう
意思決定方法が全会一致制であるにせよ多数決にせよquadratic voting にせよ、投票しなければ提案されているものが本当に生産的/win-winかどうかは判断できないのであり、投票行為・政治活動は被統治者の選好を顕示する上で、(自由市場における取引において財を交換しようとする所有者同士が交換することに同意を示すことで自分の選好を顕示するのと似たように) ここでの「生産」を行う上で積極的な役割、本質的な役割を果たしていると言えるはず
きれいな空気、騒音がないこと などに人々がどれくらい価値を置いているかというのは、投票を行うか、気に入らない人が出ていくという方法くらいでしか、測ることができない。知覚過敏のひとの数によって、適切な騒音規制は変わる (本当は数だけでなく度合いによっても変わるので、quadratic voting とかのほうがいいかもしれない)。
多数決ルールだと、賛同していない49%にも税費用が負担させられる分、実際には費用対効果に合わない公共財 (っぽいもの) を提供してしまうという問題がありそうけれど
例. 共有地の悲劇の状況においては、放牧を制限する契約にみんなが同意するインセンティブを持つ。 だから、己の労力を政治活動・投票に費やすことが軍拡競争のような不毛な争いのための浪費を行うことに過ぎないものだとは必ずしも言えないだろう
win-winな政策というのがあり、それをもたらすことは望ましいけど、何らかの選好集計メカニズムがないと、それが本当にwin-winな政策なのかどうか不明なため、投票などを行うということは正当化されるのではないか
もし政治運動を行わなくても、行った場合と同じ結果に固定して投下する労力だけを減らしてパレート改善になる、というならいいけど、減らした場合に結果が同じである保証はない
要は、領土がどちらに帰属すべきかみたいなことは、それぞれの観点からは重要でも、全体的な観点から見ればどっちが正解とかはない問題だから、コインを振ってでもどっちかに帰属を確定すべきという論が成立する
あと、領土の場合はぶつかった場合のコストが大きい
なので、領土についてはフォーマリズムは正しいけど、その他の問題に適用できるかはあやしい、と反論できそう
ここでつっこむべきは、「どっちの軍が強いか」ということは言い争いにおいてどちらが「正解」かということには相関しないけれども、支持者の多さは「正解」と、弱くともある程度の相関はするのではないか、ということかな
ヤーヴィンは「ギャンブルはゼロサムなのでやめたほうがいい、投資のほうがいい」という人と似たように、「政治はゼロサムなのでやめたほうがいい (民主主義を廃止することで、政治が生じる余地をあらかじめ無くした方がいい)」といっているとみなせそう
なぜ代わりに「(純粋な) 再分配政治はゼロサムなのでやめたほうがいい、win-winなパレート改善的政治の方がいい」とならないのか?
パレート改善で新たに増えたパイ (余剰) の部分に注目すれば、それの帰属について純粋な再分配の場合と同様の問題が指摘できるだろう、と論じることができる?
余剰について争うって具体的にどういう状況??
税によって供給される公共財自体はwin-winだけど、どういう税を財源にするか、負担の仕方が争いの対象になっているみたいな状況?
勝った場合の利得をX、負けた場合の利得をYとすると、争いにおいて勝者のみが得られる価値はX-Yとなり、プレイヤーが勝利に対し払っていいコストの上限はX-Yまでということになる
勝者側はまあ政策が採用されることにそれだけのコストを払ってもいいと思ったから払って、結果 手に入れたんだろうから、問題は敗者側が無駄に払ったコストかな
2プレイヤーの利得行列が対称と仮定すると、全体として争いには最悪の場合で 2✕(X-Y) まで支払われることになる
これは最悪の場合で、実際には賢いエージェントは負けを悟ったらそれ以上コストを払わずに撤退するだろうけど
どちらにせよwin-winな政策同士で争っている場合には、相対的には敗者な方にも一定の利益はあるので、0 ≦ X,Y
どちらの政策も採用せずに現状維持にする場合の利得を0と規約する
(コストを一括で支払う場合と、時間毎に支払う場合で違うかも?)
プレイヤーが2人として、争いにかかる社会的コストの上限2(X-Y)を、結果として採用される政策の社会的利益X+Yが上回る条件は
X+Y > 2 (X - Y)
⇔ X+ Y > 2X - 2Y
⇔ 3Y > X
⇔ Y/X > 1/3 (Xを正と仮定)
(⇔ 3 > X/Y (Yを正と仮定))
X=51, Y=50のように、勝っても負けても大して違いがない場合を考えれば
X-Y=1 , X+Y=101, 101-2✕1=99 > 0
51+ 50 > 102 - 100
150 > 51
なのでOK
(ほんとうに社会的コストを計算したいなら、軍拡競争によるそれぞれが自身で負担する費用だけでなく、軍拡競争がそれ以外の人々に及ぼす外部費用を考える必要がある)
つまり相対的勝者の利益が相対的敗者の利益の3倍を超えていなければ、それぞれwin-winである政策同士の争いからくる社会的消耗は、結果としてそれらどちらかの政策から得られるであろう社会的利益によって必ず補える ということかな
3Y > X > Y
争い合っている政策同士に3倍以上の差(比)がある場合、補償の仕方を変えて再提案したほうがいい
つまり、3倍を超えていない場合は (タカ,タカ) のコストが低いので、タカハトゲームではないと言える?
2(X-Y)はあくまで上限なので、実際は3倍より少し多くても大丈夫なはず
ここでのTullock rectangleに当たるのは X - Y?
Tullock auction
レントシーキングは、勝つかどうかにかかわらず支払うオークションとしてモデル化できるっぽい
お金をオークションする
この辺はレントシーキングの研究で累積がありそう
お金が国庫にあるとそれをめぐる争いの消耗によるコストが大きいので、民主主義における徴税はよくないと主張できる? あるいは税収の分配を割り当てるなんらかの所有権的な仕組みがすでに発達している?
ayu-mushi.iconいったん「政治は暴力の一種である」というような言葉上のレトリックを取り去ってみれば、もし政治において対立による無駄な消耗があるとしても、それ以上にメリットが上回るなら政治を避けるのは不合理だという結論になるのでは
他の分配的正義の理論においては、それがもたらす衝突を明示的にコストとして組み込んでトレードオフを考慮しないといけないのに対し、フォーマリズムの分配的正義論ではその分配的正義の理論に従うだけで自動的に衝突を避けられる、というメリットがある、と論じることができるかもしれない。
ヤーヴィンの主張には、衝突が生じる可能性のある政治を行わなくても、問題が生じないか、非政治的手段で問題は解決できるという主張が隠れている?
政治を行うことよりも、別の手段を取る方が衝突のコストを考えたときにメリットが上回る?
現状の権利者の許諾を経た改善が行えるとか、exit (嫌なら出ていく) による改善だとか の手段が取れるとか、税収最大化しても問題ない とかいうことがあるからこの主張が成立している?
ヤーヴィン: 奴隷制の問題は、いったん権利を認めて、奴隷主から買って解放すればいい。北朝鮮は金正恩が先進国の人に国を売ればいい。
衝突を避けるために権利を保証するのと、権利を保証することで取引を通して状況を改善できるから権利を認めるのとでは、違う根拠のような
衝突が避けられるので取引が成立するようになるという点では、「衝突を避ける」から派生しているとみなせる?
衝突はそれ自体で悪いのか? それがもたらす結果(悪政?)のために悪いのか?
これは武器を使って争うのではなく、自分の側にだけコストを発生させて政策が採用されるようにするという仮定に基づいている。相手や第三者の側にも政策の採用成否以外の点についてコストを発生させられるなら違った話になりそうで、ヤーヴィンはそういうモデルで考えていることが多い気がする。
friction 衝突といっても、物理衝突の場合と、衝突せずに軍拡競争的な感じになっているケースで、違いがある?
しかしそれは負の外部性があると競争から被害が生じるということの一例にすぎず、政治に限らなくて、経済などでも同じでは
逆に、権力闘争が第三者に良い副次的な効果を持つことも考えられる。
政党同士が競争するのは、政党にとってはコストだが国民にとっては利益があるかもしれない
これは、憲法などにより、一定の領域の事柄は民主主義による意思決定の対象としないという理由の1つになりうる?
あるいは民主主義にしてしまうと、再分配型政治が出現することは避けられず、そこに投下されるコストからの社会的損失はパレート改善型政治によって得られる利益を超えている、と論じることができるかもしれない
その場合は再分配的な政策が採用されずパレート改善的な政策だけが採用されるように、過半数ではなく、もっと多くの同意によってのみ通過するようにしてはどうだろう (?)
分配争いをなくして固定化する仕方にはいくつも考えられるが、その中で現状の占有状態を尊重するものは1つのシェリングポイントになるかもしれない(?)
受け入れられやすいだろうし(というか今左側通行な国では、これからも左側通行というのとあまり変わらない)
前例に従う慣習はシェリングポイントである (デイヴィッド・ルイス『コンヴェンション: 哲学的研究』)
「フォーマリズムの提案は現状の占有者にお墨付き (?) を与えるだけであり、いかなる分配争いも目指さない」ということによって、「フォーマリズムの提案自体が、フォーマリズムが避けるべきと称する種類の 政治 ではないか」という自己論駁に陥るのを避けているのだと思うけれど
ヤーヴィンの、戦争の延長上としての――あるいは儀礼化された争いとしての――政治という考えは、(ヤーヴィンがフォーマリズムの参考として挙げている) ブルーノ・レオーニに影響されたものかもしれない:
Voting appears to be not so much a reproduction of the market operation as a symbolization of a battle in the field. If we consider it well, there is nothing “rational” in voting that can be compared with rationality in the market. Of course voting may be preceded by argument and bargaining, which may be rational in the same sense as any operation on the market. But whenever you finally come to vote, you don't argue or bargain any longer. You are on another plane. You accumulate ballots as you would accumulate stones or shells - the implication being that you do not win because you have more reasons than others, but merely because you have more ballots to pile up: in this operation you have neither partners nor interlocutors but only allies and enemies. Of course your own action may still be considered rational as well as that of your allies and enemies, but the final result is not something that can be simply explained as a scrutiny or a combination of your reasons and of those of people who vote against them. The political language reflects quite naturally this aspect of voting: Politicians speak willingly of campaigns to be started, of battles to be won, of enemies to be fought, and so on.
This language does not usually occur in the market. There is an obvious reason for that: While in the market supply and demand are not only compatible but also complementary, in the political field, in which legislation belongs, the choice of winners on the one hand and losers on the other are neither complementary nor even compatible.
ただし、ヤーヴィンはレオーニ自体は引いているものの、レオーニのこの論文を参照しているわけではないので、推測になるけど
TL;DR Without economic growth, democracy doesn’t work because voters occupy a zero-sum system.
経済成長でパイが増えるというのと、パレート改善的な政策でパイが増えるというときは、パイが増えるという意味が違うけど
経済成長も政府による税金を利用した法制度やインフラによっているという意味では、経済成長もパレート改善的な政策によってパイが増えることの一種とも言える…?
政策は一定だけど別の要因によって経済成長することはあるのでは
タカハトゲーム (Hawk-Dove Game)
ヤーヴィン自身は触れていないが、資源をめぐる衝突は、ゲーム理論におけるタカハトゲームと関係が深いため、タカハトゲームを使って分析していくことにする
タカハトゲームより、男女の争いのほうが近いのでは
上の軍拡競争モデルだったらタカハトゲームより囚人のジレンマになるけど
追記: タカハトゲームより、レントシーキングモデルのほうがヤーヴィンのいいたいことに近い可能性がある
ヤーヴィンはフォーマリズムという名前をつけた割に、自分のイデオロギーの形式化を怠っているようなので (悪口)、私が代わりにゲーム理論的に考察してみた
まあ怠っているというよりは、数学的モデルを嫌っているのだろうけど
ヤーヴィンは、「責任と権限の一致」「フォーマルとリアル」「所有権」「政治」「権力が強い / 弱い」のような、定義の曖昧な自然言語による抽象に頼ってやっているなあ
(可能なツッコミ: このような利得表を書くことはフォーマリズムの主張を支持するのではなく、単に前提としてしまうだけではないか。それはせいぜい単なる言い換えにすぎないのではないか。)
利得について、戦いの代償が普通思われているよりも大きいという、実質的な主張がフォーマリズムには含まれているのでは
table:hawk_dove
A/B タカ ハト
タカ -25,-25 50, 0
ハト 0,50 25,25
https://youtu.be/YNMkADpvO4w?t=723
「タカ」は「資源の (他人の許可を得ない) 利用/コントロール」などと読み替えられ、「ハト」は利用を諦めるというようなことと読み替えられる
タカハトゲームはナッシュ均衡が2つある。
ナッシュ均衡は「A:タカ, B:ハト」と「A:ハト, B:タカ」である
ナッシュ均衡というのは、どちらのプレイヤーも他のプレイヤーの選択を同じにしたまま自分の選択肢を変えることで得できない選択肢の組み合わせを指す
どちらの均衡も、誰かの手を変えることによって誰も損させずに誰かを得させることはできない状態、パレート効率でもある
(この場合それに加え「A:ハト,B:ハト」もパレート効率であるが、あまり重要ではない)
均衡を1つに絞る手段による衝突の防止
多均衡ゲームでは「どの均衡を選ぶべきか?」という問題が発生する
(待ち合わせ場所、右側通行/左側通行)
そこで相手も分かってくれると期待できるような顕著な選択肢を選ぶことで「タカ, タカ」のようなどちらにとってもよろしくない状態を回避できる。このような顕著な選択パターンをシェリングポイントという
前と同じパターンで選択することも一種のシェリングポイントである (先例)
ただし先例が両方のプレイヤーに認知されている必要があり、相手が認知して利用するという予測のもと先例に従うわけなので、相手がそれを認知しているということも認知している必要がある
この意味でも知識は重要であるし、後に説明する意味でも知識が重要だと言える
// ヤーヴィンのいう「フォーマル」という概念や、「不確実性が衝突を生む」という主張を定式化するために知識概念に言及した
「最初に取得した者が使用する」など、所有権のような法律や慣習がシェリングポイントとして働くと考えられる
動物の縄張りや順位制もタカハトゲームとして議論される
それに対して、個体間の優劣が判明すれば、それ以降は闘争を避ける仕組みがあれば、そのような衝突は少なくなるはずである。この例が順位制である。順位制 - Wikipedia つつきの順序
フォーマリズムには、人々がその利益に対する平等な尊重をされない (ある人の利益が他の人の利益より優先される) ような制度であっても、そのような制度を変えようとすることは frictionに導くからと言う理由で不正とみなさない (身分制、カースト制の肯定) みたいな帰結がありそう。
財産の分配についてそのような帰結を持つことは明らかだけど、財産以外の権利についても当てはまる
↑(ヤーヴィンの前提に反して) 利益の分配と意思決定の権力は別という話
所有権という言い方だと同じに見える
株主は意思決定の権力と利益の分配を両方持っている
でも、ハト (タカハトゲームのハトではなく、動物のハト) においては利益の分配と意思決定の権力は別らしい
自分の縄張りの中ではタカ、外ではハトとして振る舞う戦略をブルジョア戦略といい(メイナード=スミス)、純粋なハトだけを使う戦略やタカだけを使う戦略より安定であることが分かっているらしい
ハーバート・ギンタスによると、プロスペクト理論でモデル化されている損失回避はブルジョア戦略を実現するための進化的な適応 ! ! ?
共有という選択肢が無い場合:
table:battle_of_sexes
A/B タカ ハト
タカ -25,-25 50, 0
ハト 0,50 0,0
「男女の争い」と呼ばれるコーディネーションゲームとほぼ同じ
(政府の法律というのが、実は刑罰によるインセンティブによって行動を変える(もとある均衡とはまったく別の均衡にする)というだけではなくて、このように複数ある均衡から1つの均衡を決定する役割があるということは、デイヴィッド・フリードマンが指摘している)
ヤーヴィンのフォーマリズムで重要なのは勝敗が不確実な場合であるため、2つの利得のどっちになるかわからない状況を考える:
Aが勝つケース:
table:a_win
A/B タカ ハト
タカ 35,-25 50,0
ハト 0,50 25,25
Bが勝つケース:
table:b_win
A/B タカ ハト
タカ -25,35 50,0
ハト 0,50 25,25
ここでいう勝敗が不確実というのは、客観的な試行の繰り返しで (頻度主義的に) 確率が決まるリスクではなく主観的な確率しかない不確実性 (uncertainty) のため、AとBがおのおの自分が勝つ確率を見積もった主観確率が足して100%になるとは限らない[7] フランク・ナイト
In economics, Knightian uncertainty is a lack of any quantifiable knowledge about some possible occurrence, as opposed to the presence of quantifiable risk (e.g., that in statistical noise or a parameter's confidence interval). The concept acknowledges some fundamental degree of ignorance, a limit to knowledge, and an essential unpredictability of future events.
両方自分が勝つ確率を高く見積もるという仮定は何かしら不合理な系統的認知バイアスの存在を仮定していることになる気がする (社会制度を変えなくても、もし仮にその認知バイアスを取り除ければ問題が解決する)
もし両者の勝利確率の計算が一致するなら、神が現れて「その戦争の勝利確率で重み付けされたコインを振るから、争いあう代わりにこのコインの裏表に従って資源がどちらに帰属するか決めてあげるよ」という契約を提案したら、両者は同意することになるだろう
実際に争いあうより、そうした方が損傷が抑えられる
それでも争い合うのは、争いを楽しい!! と思っている場合だろう
これは停戦合意が守られるという仮定を置く場合の話ではある
両者が見ている利得行列が違うゲームはハイパーゲームというらしい
安全保障のジレンマはハイパーゲームとして分析されるらしい?
Aumann の同意定理によれば人々の間の主観確率は一致するようにアップデートされるはずなのに、どうして争いが起こる場合そうなっていないのか? tggp said...
> So the joint expected value can be, and typically is, 150%, 180%, etc. (本文より)
Not if they are rational. This is an indication of people systematically over-estimating. I don't know what the Misesian praxeological position on probability is, but that's the Bayesian one. There is, of course, meta-rationality of how much thought you should give to probabilities and the utility you derive from inaccurate beliefs though.
tggp said...
I think I should rephrase my statements about uncertainty and agreement. Initially unbiased but ignorant people will come up with estimations that may be high or low by random factors. When they realize that another person substantially disagrees with them, this is a piece of evidence that will shift their estimation. Aumann's Agreement theorem predicts that Bayesian rational people will random-walk to agreement. There are a series of posts on that at http://www.overcomingbias.com/disagreement/index.html, with "Agreeing to Agree" being the first relevant one from the bottom. This does assume that people want to have accurate beliefs, if you find killing more suitable than random-walking toward agreement neoclassical economics would still predict you would do that. Some people seem to have an inaccurate idea of the neoclassical definition of rationality and it subjectivity (see John Thacker's comment and those he is replying to here).
そもそも自分が勝つという自分の主観確率を相手に教えるインセンティブがない
予測市場があったらどうする
「戦いを回避する提案をしてくるということは、自分側が負けそうだと思っているということだ」という推論をされるから、そういう提案をしないのだろうか?
実際に戦いたいわけではなく、極限まで譲らない、戦うぞというハッタリをすることで外交上の利益を得るという外交戦略をお互いに取った結果不幸にもぶつかるのでは
一回きりの選択としては不合理でも、戦っておいた方が将来争いをふっかけられるのを防ぐ上で有効なのでは
「領土に侵攻されたら攻撃する」というコミットメントを行う。そのコミットメントを信頼できるものにするために、純粋な利益としては和平したほうが良くても、戦う
TODO: 不確実性がなくてAが勝つケースはどういう性質を持つか調べる
仮にどちらも自分は5/6より大きい確率で勝てると思っているとすると、Aがタカを選んだ場合の期待利得は$ 35 \times \frac{5}{6} -25\times \frac{1}{6} = \frac{175 - 25}{6} = \frac{150}{6} = 25となり、Bがどっちで来るにせよ自分がハトの場合の利得を下回らない
Bから見ても同じなので、両方ともタカを選択することになり、衝突が回避できない
「A:ハト, B:ハト」の利得が高いのが影響して両方5/6という大きな値じゃないといけなくなってる
所有権というのは両方使わないという状況の効用はほんらい小さいのでは
主観確率を足して100%にならないのが問題と考えるか、それともこれを一般化して期待効用に関するテーゼとして定式化できないか。
「こっちのほうが武力的には強いから、もし仮に戦ったら勝てるとは分かっているけど、アレを守るために相手は死ぬ気で戦うと予想できるのに対し、こっちとしてはアレはどうでもいいし、消耗するコストの方が大きいから、戦わない」というような、「命/ご馳走原理 (life-dinner principle)」のような感じで帰属が決定される状況もカバーしたいと思ったら確率だけじゃなくて財産から得る効用もいる気がする
フォーマリズムの主張: 不確実性が衝突を生む
friction/violence = conflict(of interests) + uncertainty
所有権の道具的把握
As a formalist, though, my theory of property is not ethical, but instrumental.
所有権とは争いの結果を事前に予測可能にすることによって衝突(「A:タカ, B:タカ」) を抑止するための道具である それは (通常のタカハトゲームの場合) 均衡選択の問題とも考えられるし、(勝利・敗北付きタカハトゲームの場合) 利得行列の問題とも考えられる
ドイツとフランスが戦争に陥らないためにアルザス・ロレーヌを共同管理にしたのはフォーマリズムと逆の発想に思える
利得行列を改変する手段による衝突の抑止
両方タカを避けるための方法: とりあえずBがタカにならないようにすることを考える。
Bがタカ選択の場合の利得の期待値を下げればよいので、
1. Bが勝った場合か負けた場合、あるいは両方のBの利得を小さい値にする (刑罰) / そしてそのことをBに事前に認識させる
2. または、Bにとっての自身の主観的な勝利確率を下げる (Aの勝利を明確に)
(1)(2) がAにも認識されているべき (そうでないとAはハトを選ぶかもしれない)(それでも別にパレート効率だからいいじゃない?) いや、Aに認識されているとBが知らないなら、Bがハトを選ぶことにはならない。あくまでAがタカで来るからBはハトを選ぶんだよね。
認識というのは通常のゲーム理論ではわざわざ書かずに前提されている (利得行列は共有知識とされている) が、ここでは明記した
権力の真空は、政府が識別可能な中央権力や権威を持たないときに発生しうる。 権力の真空はまた、武装民兵・反乱者 ・ 軍事クーデター・軍閥・独裁者などの形で、即座にその空白を埋めようとする勢力が現れる傾向があることを示唆する。この用語は、 犯罪集団の抗争力を失い脆弱になったときの組織犯罪についてもよく使用される[4]。
世襲または法定による継承順位や効果的な後継者育成は、地位継承問題を秩序だって解決する手段である。独裁政治の失敗や内戦などによってそのような手段が利用不可となった場合、権力の真空が政治的競争または暴力、或いは(通常)その両方を伴う権力闘争を生じさせる。政府が大部分の地域を掌握できなくなったり廃絶されたりするなどの憲政の危機に際しては、不明瞭な承継を招く権力の真空が生じうる。
この文章はヤーヴィンの主張によく似ている (どうもこの文章はwikipedia編集者が徐々に足していくことでできた文章で、単一の書き手や元ネタが居るわけではなさそうだった)
彼はこのように「係争があった場合にその勝敗 (結果) が事前に予測できること」を法の支配の本質と考えているようで、だから「法の支配 (rule of law)」と所有権を同一視している
ayu-mushi.icon所有権法と所有権はどう違うか、考えると頭が混乱してくる
Since the rule of law can be defined in terms of property rights—property is any right that you can own—any meme that opposes property opposes law.
法の支配は所有権の観点で定義できる――財産というのは人が持つことができるあらゆる権利のことだ――ので、所有権に反対するあらゆるミームは、法に対し反対しているとみなせる。
帰結として、「法は権利を認めるもの」ということが導かれそう?
And political freedom can also get you other goodies. Such as, for example, a share of this delicious revenue stream that the State is constantly producing. Or various benefits purchased with such.
…
And the use of politics to benefit yourself is simply lawless extortion. Here we see the essentially paramilitary nature of democracy. When you use power to monopolize some scarce resource, in the absence of a law that assigns an owner to that resource, you are inevitably struggling against others who will use power themselves. This may be extremely limited war, but it is war nonetheless.
ヤーヴィンは、この限定戦争が実際の暴力にも結びついていると主張する。しかし、ヨーロッパや日本においても、というかアメリカに比べればそちらのほうが、再分配はあるはずで、しかし、ヨーロッパや日本でも再分配をめぐる政治が暴動やらに結びついているのだろうか。アメリカの方が治安が悪いけど。
「所有権は衝突を無くすためのもの」という定式化はハンス・ハーマン・ホップの影響かもしれない
It is sometimes thought that conflicts result from the mere fact of different people having different interests or ideas. But this is false, or at least very incomplete. From the diversity of individual interests and ideas alone it does not follow that conflicts must arise. I want it to rain, and my neighbor wants the sun to shine. Our interests are contrary. However, because neither I nor my neighbor controls the sun or the clouds, our conflicting interests have no practical consequences. There is nothing that we can do about the weather. Likewise, I may believe that A causes B, and you believe that B is caused by C; or I believe in and pray to God, and you don’t.
But if this is all the difference there is between us nothing of any practical consequence follows. Different interests and beliefs can lead to conflict only when they are put into action—when our interests and ideas are attached to or implemented in physically controlled objects, i.e., in economic goods or means of action.
ハンス・ハーマン・ホップは、何の話をするときも所有権の原理の話を繰り返しているのか、色々なところで所有権の原理の話をしている
ただし、ホップの方は、「現状の占有者に対し、別の人が『自分の方が先取者からの譲渡系列をたどっていける、正当な所有者だ』といって挑戦することはできるけど、現状の占有者じゃなくて挑戦する側に立証責任がある」っていう、フォーマリズム (ヤーヴィン) と権限原理 (ノージック) との中間の立ち位置にあるようだ
ロックが労働を原始取得の条件とするのに対し、無主物先占を原始取得の条件とするのはカントの所有権論の特徴らしい
立証責任というのが、制度的というよりも事実的な問題によっていて、単に確率的に低い主張をする側に割り振られるというものだとすると、これは現状の占有者から無主物先占者に譲渡系列をたどっていける場合が多いのか、そうではないのかという経験的問題によって話が変わってくることになりそう?
いや、いくら現状の占有者から無主物先占者へとたどれる確率が低くても、適当に来た挑戦者の側の確率が高くなるということはなさそう
ただし、アメリカでインディアンが白人に土地返せ〜と言った場合などは、そういうことはありえるかもしれない (仮に大した根拠がなくても、白人が元々の先取者の子孫である確率よりは適当なインディアンの祖先が元々の先取者である確率のほうが (相対的に) 高いかもしれない)
白人がインディアンから買ったみたいなのもあった気がするけど
ホップが血縁関係を所有権の根拠にできると考えているかはしらないけど
血縁関係に訴えなくても、もし仮に窃盗が発生しなかった場合の反事実的な状況における所有者に返す (原状回復) 義務が発生すると考えれば、立証責任を挑戦者が負う必要はないかも そういう反事実的状況ではそもそもバタフライ効果で同一人物は生まれていないかもしれないという非同一性問題が発生するのでは
この部分の違いから、ホップ流の所有権論だと、政府が現状領土をコントロールしているからといって、領土の所有権もあるとは (必ずしも) 言えない
ayu-mushi.icon予測可能性、争いというのは具体的にはどういうことなのか。
「このバナナはかけっこが一番速い人に属する」というルールが存在 (それが誰によって作られたというわけでもなく魔法のように存在するとする) したらそれはバナナのコントロールが予測不可能といっていいか。人々がバナナのためにかけっこし始めるのは争い・政治なのか。
だれが足が一番速いのか事前にわかっていれば、負けると予想した人は走らない (あるいは頑張らない) し、かけっこへのコスト投下は始まらない
負の所得税があったら、それによる税収の帰属が予測不可能と言っていいか。それとも、もしそれがずっとあると分かっているなら実は株主が税収を受け取る権利と似たようなものに過ぎないのか。人が負の所得税の存在によって労働行動を変えたらそれは争いとみなすのか。
秘宝が、収入が高い方に帰属するというルールがあったらどうなるのか。収入をより高くするというレースによって獲得しようとするかもしれないから、帰属が不確定ということになるのか
天気に応じてバナナの帰属先を決める
市場競争もfriction / 争いの一種ではないのか? (所有権を付与するのと同様に) 独占権を付与することによりその争いを止めるべきとならないのはなぜか
→資源の所有者は決まっていて、その人から譲渡してもらうために別の人々が何かをして (その人に対価として認められるものを作るなどして) 競っているという状況にすぎないから問題なし、という回答でおk?
世論を意図的行為により操作でき権力を争えるというのと、客の心的状態を良い商品を提供するという意図的行為により操作して自発的な譲渡により店がお金を手に入れるために競争するというのとでは何が違うのか
ヤーヴィンは報道は世論を洗脳する (それは不正だ) みたいに言っているが、企業が消費者を洗脳してお金を巻き上げる競争をしたらどうなのか
詐欺、過大広告の扱いはどうなるのか
ロックの労働所有論においては無主物をめぐって、われ先にと開墾することになるが、これは friction に該当する?
じっさいロックの労働所有論では人に無駄に労働するインセンティブを与えるから効率性の観点からすると筋悪な気がするし、その無駄な労働はレントシーキングに近いような気がする
市場競争の場合はこれの取得方法が他人からの譲渡であるバージョンということになるのでは
王位継承の場合、継承順位は血統なので一見意図的行為によって操作できないように見えるけど、よく考えると殺害によって継承順位が変化するため、民主主義において世論に影響を及ぼすことで結果に影響できるのと同様、争いに導く制度と言えそう
分配的正義の理論としてのフォーマリズム
フォーマリズムは、功利主義のように利益が誰に分配されるかを気にせず利益を最大化しようとする理論ではなく、誰かがその利益をあずかる資格を持っており、より大きな善をもたらすためであっても奪ったり他のところへ再分配することが認められない、分配的正義の理論の一種と捉えられそう。
仮にA氏から奪ってB氏 (あるいは複数) に移転することでより大きな効用が得られるとしても、そのようなことは認められない
平等主義的な分配的正義の理論のみのことを、分配的正義と呼ぶことがあるけれどここでは広い意味で、財産の分配に関する公正の基準であって、それを達成するために力を用いることを (その理論によれば) 正当化できるものというような意味でつかってる
フォーマリズムは、平等主義的な分配的正義の理論 (ロールズの格差原理、運の平等主義など) と対立する。 ヤーヴィンは現在の財産の分配は恣意的、運であるが、それでも所有者が明確に決まっていることのほうが重要なので守られるべきと言っている。これは所得が高い人は運がいいだけだから再分配すべきという (ロールズ、運の平等主義者などの) 理屈と比較すると面白い。
It is impossible to argue with the ethics of antipropertarianism. Clearly the estate of the newborn duke is arbitrary and not, in any conceivable moral sense, deserved. The reason I believe in property is simply that property prevents violence, and I hate violence. In my world, the estate goes to the duke because it is the only way to keep everyone from fighting over it.
功利主義は、利益が誰に分配されるのかを気にしないという意味で反・分配的正義の理論と呼べる。
一方、フォーマリズムも、どこに分配があるのかは気にするもの、現状の分配をそのまま正義とするという別の意味で、反・分配的正義の理論とも言えるかもしれない。
公正世界仮説では世界についての記述的信念から現状の分配を (たとえば努力した人は成果を得るべきだというような規範的な信念と、成果を得た人は努力を現にしているという記述的な信念を結びつけて) 公正としているが、フォーマリズムは公正ということに関する基準の方を現状に取ることで、現状の分配を公正とする
ノージックは、「平等に分配するべきだ」「能力に応じて分配するべきだ」「必要に応じて分配するべきだ」などの分配パターンに基づく分配的正義の理論をまとめて、最初はそのパターンに則っていても自発的な譲渡によってもとの正しいパターンから外れていくことがありうるため、それらの正義の理論においては正義を実現するために常に国家干渉が必要となってしまうという理由で批判した。
政治権力についての end-state principle:「1人1票、あらゆる人が等しい権力を持つべき」(民主主義)
patterned theory: 「適性のあるものが権力を握るべきだ」(メリトクラシー) 「優れた血統を持つものが権力を握るべきだ」(貴族主義)
権限原理のようにプロセスに注目する場合: 「正しいプロセスに定められた手順にしたがって権力の移転がなされるべきであり、そうでない移転は不正である (レジティミスム - Wikipedia)」 ノージックの権限原理だと、前の所有者からの移転だから、もっと直接的にそれとアナロジーすると前大統領が次の大統領を選ぶ (禅譲?) みたいな感じになりそうだけど
五賢帝時代の養子による帝位継承
フォーマリズム: 「現状ある力関係 (係争のさいに誰の主張が勝つと予想されるか) を追認するような形で制度的なステータスの初期設定が行われるべき。その後は権限原理と同じで、法に則って権力の移転を行う。ただしここでの法はその時点で実効力を持っている法であり、他の法に変えることは認められない。」みたいな感じ
領土についてはルイ14世の自然国境説や、民族自決「ある民族が住んでいる土地はその民族が治める国民国家に帰属するべきだ」が patterned theory of justice で、「歴史上 最初に領有した政府が持っているべきで、侵略など不正な手段で手に入れた領土は返還するべきだ」が権限原理で、「現状の実効支配主体の主張を争おうとすべきでない」がフォーマリズムかな
領土については、フォーマリズムの説得力が強そう?
過去に奪われた正義を回復するために戦争に導くより、現状の実効支配者の主張を受け入れる方がいい
人々の直観を考えたとき、1. 領土、2. 財産、3. 精神的自由権 の順に考えると、左側に行くほどフォーマリズムが強く、右側に行くほど現状維持としてではない正義の概念が強まっていきそうな感じがする
まあでも領土問題でも時効取得を認めない (歴史的に最初に取得した国や条約で合意した国に帰属すると考える) 人は多いかな
フォーマリズムからすれば権力者の同意の上での領土の譲渡は認めるだろうけれど
ヤーヴィンが平等主義的な分配的正義論を、一回きりの再分配ならまだいいけれども、恒常的な再分配が必要になるのは良くないとして批判しているのはノージックの影響?
しかしヤーヴィンの分配の理論も、「現実の力関係を反映するような形で制度的なステータスが分配されるべきだ (※これは制度的なステータスの分配であり、物理的な移動を含意するものではない)」と言ってるとみなせて、ノージックによる patterned theory of justice への批判 と同じ批判 (liberty upset pattern)があてはまってしまうかもしれない
譲渡するときに力関係まで譲渡されなきゃいけないのか
背景における力関係が外生的な要因で変化したらどうするのか
ノージックの歴史的な権限原理においても、ウェールズ人の土地はもしイングランド人の侵略がなければウェールズ人の子孫に帰属していたはずなのだから、ウェールズ人の子孫に返還されるべきだ、というような感じで、現状の占有者の同意を得ない強制的な返還あるいは賠償が正当化されうるだろう (ノージック本人は返還しなくても賠償で十分と考えているっぽい)。
ノージックは権利侵害が生じた場合は、権利侵害が生じなかったような反事実的な状況を考え、「侵害が生じたことで得している可能性が高い人」から「侵害が生じたことで損している可能性が高い人」へと賠償を行うべきだと考えた。
また、SEPで紹介されている Ralf Bader の考えによると、ノージックの経済的分配についての考えは、政治権力についての考えとパラレルである。ノージックは国家についても、現在のような権利侵害的な国家がもし生じなかったらはどうなっていただろうかということ = 権利侵害なしで生じるであろう反事実的な状況を考え、そこで生じるであろう最小国家のみが正義にかなうと考えた。
フォーマリズムにおいても、経済的分配についての考えと政治権力についての考えはパラレルであり、返還や賠償は必要ないし、政府は不正な手段を通じて権力を得たとはいえ、だからといって現状の権力の分配自体が不正とはみなされない (adverse possession)。
1. 現状の権力・権利・財産の分配は正義である
あるいは、それを維持する力 (社会的、物理的) を持っている限り正義である
2. 現状からその権利(力)者の同意に基づいて自発的に生じる移転、あるいは継承法などの安定的な法に則って生じる移転は正義である
3. 現状からのパレート改善であるような分配は正義である
4. 現状からの分配の変更を権利者の同意や安定的な法に基づかずに (窃盗などで) 成し遂げようとする行為は不正義である
5. フォーマリズム以外の正義論を標榜して賠償や再分配を求める行為も不正である
どの正義論においても他の正義論を標榜して賠償や再分配を行うことは不正かもしれない
あたりを認めてそうな感じがある。
最近まで現代政治哲学について知らなかったので、フォーマリズムも帰結主義みたいに読んでたけど、もっと正義論みたいな文脈で解釈していくほうが忠実かも
フォーマリズムの射程範囲は、正義論にかなり近い?
関税撤廃のような政策はカルドアヒックス改善でしかなく、国内の農家にとっては損かもしれない。
ただ、その場合でも、単にその理由だけでは、その利益が権利に基づくものかはわからないので、農家に対する補償の必要があるかはわからない。
ここは曖昧かも。フォーマリズムでは力 (占有) に根拠がある利益だけを保護するのか、現状の利益一般が保護されるのか?
多分前者な気がする
しかしもし農家 (農協?) がロビー活動を通じて関税を維持していた場合、農家が持つ政治的影響力に根拠があるという意味では、フォーマリズム的には農家にはその利益に対する権利があり、関税撤廃するさいは農家に補償を行う必要があるかもしれない
フォーマリズムにおいて補償ありなら他人が所有権を奪っていいということになっているかは定かではないので、もっと農家からの明示的な合意を得る必要があるかもしれない (農家やその組織に関税設定権が制度的に認められ、そこから損する海外農家や国内消費者がそれを買うという形を取るとか)
「関税撤廃時に農家に補償するなどというのは、奴隷解放のときに奴隷主に補償するようなもので正義に反する」というのがリバタリアン的な正義論なのに対し、フォーマリズムは少なくとも (なんなら奴隷主にも) 補償はするべきと考えるだろう
ところで、リバタリアンたるぼくは、こういった貿易自由化にまつわる議論を聞くたびに思い出す本がある。スティーヴン・ランズバーグ『フェアプレイの経済学』だ。
ランズバーグは、第7章「おじいさんの誤謬―公平性について(その1)」で、NAFTA(北米自由貿易協定)が成立したときにマイケル・キンズリーが公平性と政治的配慮の観点から、アメリカ人労働者の損失が補償されるべきと主張していることを取り上げ、次のように論じる。
キンズリーは、政治的配慮という点では正しいかもしれないが、公平性の点では逆のことを言っているではないか。このアメリカ人労働者は、私たちが3ドル出せば買えるはずのものにずっと16ドルを請求しつづけていたのである。公平性の原則を掲げるのなら、これまで保護主義の利益を得ていた人たちのほうが、その負担を負ってきた国民の大多数にたいして補償すべきだろう。
ここで、フォーマリズムの考えに立つと、「政治的配慮」と「公平性」の観点の違いは消滅する
他の分配的正義の考えに立つ場合でも、「政治的配慮」としてフォーマリズム的観点が持ち込まれる場合がある
レントシーカーの利益を所有権化して公認するの面白いかも
そう予定することがレントシーキングのインセンティブを与えるのでだめそう
ある日時以前に得ている利益を保証する、とすれば
解雇規制は、労働者が職に対して所有権を持つ状態としてモデル化できるのでは。そしてその所有権を買い上げるなど、交渉で解決する。
フォーマリズムは現状の分配のパターン自体について正義 / 不正を考えることはないが、現状の権力を批判するさいに何らかの不正の概念を使っている気がする。それはその分配のパターンではなく、その分配が維持されている仕組みに関するものだと思うけど、ノージックの権限原理と異なり、物理力による強奪や強制を不正とするのではなく、騙しを用いることを不正なプロセスだと言っているような気がする。
But stripping back the gloss of charitable reconstruction, I suspect the philosophy of distributive justice held by many is a philosophy that we will call rulesianism. Rulesianism is a kind of folk philosophy held by many in the media class. To the best of my knowledge, no professional political philosopher has ever been a rulesian. However, rulesianism holds a magnetic power over some segments of the public. The ruelsian holds that if you gained your wealth through the rules, then by those rules, you own that wealth. It would be cheating to change those rules now. The wealthy winners played the game and won- that's the end of it.
フォーマリズムは、philosophy bear氏がメディアの人々に支持されていると考える、ルールジアニズム (ロールズ主義 Rawlsianismのもじり?) と似ているかもしれない。
自然権論の否定
ヤーヴィンはリバタリアンのマレー・ロスバードに影響を受けているが、ロスバードの自然権論は否定する
あるいは現状 実効力を持つ権利(法)がそのまま自然権(法)論における自然権(法)の役割を担うと考えればいいかもしれない。
これも、功利主義が自然権(法)論を否定するというときの意味とは別の意味で、現状の制度的・物理的に裏付けられた権利・法をそのまま追認するという意味で、自然権(法)論を否定していると捉えるのが良さそう
革命は常に不正であり、市民的不服従は常に不正である
リバタリアニズムとフォーマリズムの違い
ヤーヴィンのフォーマリズムとノージック、ロスバードらのリバタリアニズムのどちらも私有財産権の価値を強く重んじるが、リバタリアニズムが自己の身体に関する権利や行動の自由からの派生として私有財産権を重視するのに対し、フォーマリズムは特に自由とは関係ない観点から私有財産権を認めている。だから、フォーマリズムは、リバタリアニズムから自由を抜いたものとみなせるかもしれない。
フォーマリズムは領域に対する国家の主権をprimary property、通常の所有権をsecondary property として統一的に位置づけている
疑問: 上記事で、ノージックやアイン・ランド、ロスバードはリバタリアニズムを倫理的理想 ethical ideal と考え、一方ヤーヴィンのフォーマリズムは自由を目的 goal としてとらえると言っているが、理想と目的の違いとは?
1.1. Two Versions
At the outset, we must distinguish these two views:
(1) that liberty is the sole value to be promoted by governments and individuals (sometimes called the "teleological" version of libertarianism) and
(2) that liberty is our sole right (sometimes called "deontological" libertarianism; this is the view that the word "libertarianism", unqualified, is generally taken to stand for nowadays.)
ヤーヴィンはここにおける(1) teleological version of libertarianismを支持しており、ノージック、アイン・ランド、ロスバードは (2) deontological libertarianism を支持していると解釈できる?
ノージックやアイン・ランド、ロスバードのリバタリアニズムは自然権理論に基づいているが、そのような理論は循環に陥らないような正当化を与えることができない、と言って問題にしている。ヤーヴィンは、もし自由を理想ではなく目的だととらえた場合には循環に陥らないと思っているのだろうか?
以下の議論を図にまとめた
https://gyazo.com/3131553dd46b7acf79ab1087f1bb16ec
(2)を自由と呼んでいるなら、(1)と相対的に自由は目的 ((3)に対しては手段) だと言ってもいい。ただ、その場合あまり普通の意味での自由ではない。
(4)を自由と呼んでいるなら、それは暴力の抑止に訴えて正当化されるようなものではない。なので独立の価値として認める必要が出てくる。
暴力を避けるべきという議論の余地の少ない前提と事実判断のみからフォーマリズムは正当化できるので通常のリバタリアンのように論争的な価値判断に依存する部分が少ないのが良いという趣旨のことも言っているが、「フォーマリズムが自由という目的を達成するだろうから良い」という正当化は暴力の悪さへの訴えとは独立の正当化なのだろうか?
「自由が暴力をふせぐゆえに、自由は望ましいことが正当化できる」というような関係にあると思っているのか?
つまり「暴力を避けるべき」ということから所有権が正当化でき、リバタリアンがよくそうするように所有権の保護と自由を同一視することで、結局暴力の防止から自由が正当化できているということなのだろうか。
しかし1つの問題としては、分配が完全になんでもありなので、他人の身体を所有するようなものも含んでしまうだろう。つまり自己所有権を正当化したことにはならない。他人の身体を所有するような形の所有権が正当化されたところで、それを自由と同一視はできないのではないか (ネオカメラリズムはまさにそのような種類の所有権に見える、というのはおもしろい)。
いや、初期には、自分の子供を奴隷として売るというような形で得られた所有権は暴力に導くとして否認していたことからすると、この時期は「暴力は悪い」から自己所有権が正当化できると考えていたのかな:
The fact that people are born and die introduces a complexity into this nice system of interacting agents in a scarce resource environment. A good example is one your question implies: can you sell your children into slavery?
Formalism is not an abstract good. It is not good because it is good. It is good because it achieves its purpose, and its purpose is to prevent violence (actually, I now think "chaos" is a better word, violence is overexposed) - that is, the combination of conflict and uncertainty.
It does this by holding people to their own promises. Holding a person to a promise their parents made for them doesn't compute. It is much more likely to be recognized as invalid by all parties, leading to uncertainty etc.
So a reasonable formalist approach to parental custody, I think, gives parents complete potestas over their children until emancipation at maturity, but no power to contract on their behalf.
「フォーマリストにとって自由は目的である」というのは、(primary property rights の保護のことをそれ自体自由とは呼ばないだろうから) secondary property rights の保護を自由と同一視した上で、「secondary property の保護が目的で、primary property の制度はそれを実現するための手段として正当化される」というような意味なのだろうか。
しかしどちらも暴力を避けるという目的に照らして直接正当化されると言っているから、primary property を secondary property の保護という目的に資するという観点から改めて正当化する必要はあるのだろうか。
もし primary property の制度が secondary property をもし仮に損なうのだとした場合、両者の保護にトレードオフの関係が生じ、primary property rightsを破ることで secondary property rightsが守られ、トータルでの暴力は減らせる (ので primary property rights を暴力の防止という観点から正当化することに失敗する) という可能性が否定できない。
たとえば革命を起こすと犯罪が劇的に減るみたいな状況。primary property の制度とその保護が secondary property rightsの保護に反しないどころか役立つならその可能性がつぶせるので、冗長ではないということかも
つまり、primary property の方は直接的な正当化と間接的な正当化を両方必要とするということかも
その場合でも、primary property の制度が secondary property rightsの保護に反しないということさえ言えばいい気もするけどね
もう1つの問題。狂った政府が被治者に対し「赤い服を着ろ、さもなくば懲役30年」などと命令するという状況を考える。このとき、直観的には自由が侵害されているが、暴力が生じていると言えるか? 暴力は、希少資源をめぐって複数のアクターが争い、どちらが勝つかわからない状態で生じる衝突と定義されている。
しかし、たとえば軍が強いとすると、この場合政府が勝つのは誰の目にも明らかで、被治者は抵抗を諦め、単に屈服するかもしれない。その場合、直観的には自由の侵害ではあるが暴力ではない。
つまり暴力の防止に基づく secondary property の正当化は、被治者-被治者間の侵害からの保護を正当化するのには成功しているが、政府が被治者の財産権を侵害することからの保護の正当化には成功しておらず、「政府は権力が安定かつ合理的な場合、自由の侵害を行わないため、権力の安定性は望ましい」というときには、暴力の防止から正当化されるものとは独立の「自由」の価値に対する訴えがなされているのでは?
ヤーヴィンの主張は、民主主義においては権力が不安定であるため権力をめぐる争い ("暴力") が起こり、結果として圧政 (無駄な規制や政府支出) が生み出されているというものであった。
しかしもしフォーマリズムが究極的目的として暴力の抑止のみを認めるのであれば、圧政が生じたという結果のゆえに権力をめぐる争いが悪いのではなく、権力をめぐる争いが暴力なのでそれ自体として悪いというしかない。
直観的にはしかし、ここで"暴力"の抑止は手段で、自由の保護のほうが目的と言いたくなる。
しかし、上の議論の通り、無駄な規制はそれ自体"暴力"ではないのでそのように言うことはできない。
目的であるはずの暴力の抑止が原因、手段であるはずの自由が結果に来てしまった。
となると、フォーマリズムにとって、被治者が持つ政府からの自由は、せいぜいフォーマリストが望むものの副次的な結果にすぎないことにならないか。「フォーマリズムは暴力の抑止を目指すが、暴力の抑止の(予期される)結果として被治者の政府からの自由がある」は、「幸福主義者は幸福を目指すが、幸福の(予期される)結果として笑顔がある」と同じ構造になる。
目的とする事態が引き起こす結果がそれ自体目的であるということにはならない。
フォーマリストは自由な国を訪れて、自由であること自体ではなく、それがもしかしたら政府における権力争いの少なさの証拠であるかもしれない、と考えて喜ぶのか?
権力争いがない場合被治者に自由を認めるのが合理的としても、単純に統治者が狂っているなどの理由で圧政になることもあるだろう
自由とは所有権であり、所有権は「暴力の防止」という目的によって正当化されるというなら、「自由はフォーマリズムの目的である」というより、「自由はフォーマリズムの手段である」と言ってほしい気がする。(自由が、primary propertyにとっては目的であり、暴力の防止にとっては手段である、というような関係にあるなら、おかしくはないけど。)
Therefore, the simplest way for a libertarian to support natural rights in his own society is to support a savage police crackdown on crime. For instance, by reimposing the standards and practices of the Victorian law-enforcement system, certainly both available and practical.
Inevitably some mistakes will be made; some innocent heads will be cracked. However, as a libertarian in America, exercising your libertarian rights, your goal is to minimize the number of natural-rights violations in America—whoever may be committing them, and in whatever uniform. Hence, you should generally support the police against criminals. The former violate natural rights only by accident and/or malfeasance, whereas the latter do so as a matter of regular procedure. In practice, it is not hard to know who is the cop, and who the criminal.
これは「権利が侵害されないこと」を最大化すべき善として捉え、より大きな権利侵害を防ぐために小さな権利侵害を行うことを支持しているので、ノージックの言う「権利の功利主義」 (“utilitarianism of rights") の考えに似ている?
その考えで「衝突の最小化」を読むなら、焼きなまし法のように一旦権力や所有権の帰属を不安定にすることで結果的により安定な状態を生み出すみたいなことが正当化されそう
ヤーヴィンは formalist manifesto より後で革命あるいはレジーム・チェンジを目指すようになったが、これは主権を一度侵害することでより安定な主権や所有権が保証できる、として正当化できるかもしれない
ただし、現状の権力者に対する年金による補償を行うと言っているので、補償ありなら権力の法に則らない非自発的な移転も認めているというふうにも解釈できる?
時効取得
※スティーブン・シャベル『法と経済学』にならい、また馴染みが大きいであろうから、"adverse possession" は「時効取得」と訳しているが、微妙に意味が違うかも
時間の要素はない
0秒時効取得?
本当に0秒なのかは、よくわからない
現状の占有者に所有権を与える
カントの私有財産権論でも占有が所有の根拠になるらしい?
というか、無主物先占が原始取得のルールになってるだけ?
現状の力関係を反映する形で制度的なステータスを設定する
ヤーヴィン自身の言い方だと、real な所有権とformal な所有権を一致させる
ここでわかりやすくするために私が占有と呼ぶことにしたのは、物をコントロールしているということ。一般的な意味からすると物の委託者ではなく受託者が占有者だが、ここでは横領を防ぐ手段がある (=コントロールしている) なら委託者でも占有者となる…はず。ヤーヴィンは貸出や委託については論じていない気がするのでわからないけれども。 ヤーヴィン自身は"control"や「事実上の所有」などと読んでいるものを言い換えた
占有ではない所有は彼は "formal" と読んでいる
私はこれを制度的なステータスと解釈して、「制度的なステータス」や「所有」と呼んでいる
彼の formal, nominal, real あたりの使い分けに一貫性があるのかよくわからない
(平等主義的な分配ルールであっても、みんながそれが勝つと期待し、負けると思った側が引くなら、争いに導かないということは考えられる。)
フォーマリズムにおいて占有が所有の根拠になる、ということは「might makes right (力こそ正義)」という言葉で表されている。(一方、might から ought は導けないとも言っている: )
Yarvin: And you are not just deriving Right from Might, which is perfectly acceptable, but Ought from Might. Which is not.
Right: 政治や法の領域, Ought: 道徳の領域 ?
ここでの力に道徳的な説得力みたいなのは含むのかね (係争したときにどちらの主張が勝つかの結果に影響するという意味では、道徳的な力もあるかもしれず、それをも考慮して制度的なステータスを設定するべきというふうにも考えられるかもしれない)
道徳的説得力は物理的な力や制度的な所有権と違って、少なくとも理想的には状況に応じて決まるものであって、個人に帰属するものではないという問題がある?
物理的な力、所有権も、係争事項と人物から決まるという点では同じでは
フォーマリズムは以下の3つの帰属・移転原理で所有権を考えてそう:
(1)「現実の力関係を反映するような形で制度的なステータス(の初期分配)が 決定されるべき」
(2)「現状の権利者の同意による自発的な譲渡、もしくは相続・継承法などの (現実に効力のある安定的な) 法に則った移転は正義であり、」(2')「そうでない移転は不正である」
(2')は、裏を返すと、「過去に持っていたなら、特に何も生じない限り、今も持っている」(つまり「デフォルトでは同じ人に帰属が維持される」ということが暗に含まれている)
所有される物体および所有する人格についての通時的同一性概念を前提にしている
(3)「制度的ステータスの帰属・移転を決める方法は、係争が生じたときにどちらの主張が通るかを、関係者の行為の影響下にあるもの (世論など) からは独立に決定するものであり、争いが生じるより前に事前に勝敗が予想可能なものであるべき」
これは制度的ステータスの帰属・移転だけなのか? それにともなって占有も変えるべきな気がする
(2) はノージックの権限原理っぽい。(1) はあくまで現在の初期分配のようなものであって、未来向きに財産権の帰属を決定しようとしたらけっきょく権限原理のようなものが必要になるってことか。(未来について、「その時の占有者に帰属するべきだ」というのはトートロジー的で役立たないし)
だからフォーマリズムにとっては、現在は不正ではありえないのに対し、未来向きに見たときには現在から法に則らずに移転が行われるという形で不正が行われるということはあり得る
これは0秒時効取得を真に受けた場合で、時効取得が発生するのに必要な時間がもっと長いならその期間の間 現状が不正ということはあり得る
0秒時効取得とするなら、盗みを罰したり返還・賠償を義務付けたりすることができない
国家の権力はいかなる係争でも勝つから、法律に基づき最終的には元の保有者のもとに戻るという意味で、盗まれた方の人が結局 占有していると応答する? (事実と規範の区別がないみたいな言い方になるけど)
こう見ると、民主主義は2つの観点から批判される。
1つめは、(1)の観点で、現状の力関係が平等でないのに制度的なステータスや社会通念として平等である (民主主義であるというふうに通念上なっている) ことは、争いにおいて誰が勝つかをあらかじめ予想するための情報を隠し、不毛な争い (政治) に導くため悪い。
たとえば負けるとわかるはずの側がわざわざ政治運動をしたり、勝つと分かるはずの側が権力を維持するためにリソースを必要以上につぎ込んだり
また、現状を「1人1人、同じ政治権力を持つ」という名目に現状を合わせようとする試みが、frictionをもたらす可能性がある
(3) の観点からは、もし仮に現実の力関係のモデルとして民主主義が正しいモデルであったとしても、それは係争において誰の主張が通るかを関係者の行為と独立に決定 / 予想できるような制度的仕組みではなく、やはり衝突に導くため悪い。
世論に影響を及ぼす / 支持者を集める ことでどちらが権力を得るかを左右できるため、争いの余地がある
もし実際の力関係の観点から見ても勝敗が予測不可能 (アナーキー状態など) なら、(1) の観点からはなんとも言えないが、(3) の観点からは文句がつけられる
ヤーヴィンは「昔のアメリカ (メリットシステム以前?) や、古代の民主政・共和制などは現実の力関係のモデルとしても民主主義が正しいモデルだった」と考えているっぽい
つまり、民衆の軍事力に頼らないと国防がなりゆかないみたいな理由で、実際に民衆が政治力を持っている場合
その場合、(1)の観点からは民主主義にも問題がない
(2)の観点からは、民主制でも法に則った権力の移転は行われており、そのルールは歴史を通じて安定しているから、(現状が民主制である場合は) 文句はなさそう
革命を起こして王政から民主政にするみたいなのは問題になる (君主制的な王位継承プロセスによる法に則った権力の移転と対立する)
(1)と(2)の対立
外生的要因による力関係の変化、譲渡によって力関係まで移転されないことに伴う問題
「所有権の権利者の許可を得ない移転は不正だ」(2)ということを受け入れると、胎児を所有するならばお腹から生まれて成長した子供も所有し、子供を所有するならば大人になった息子娘も所有する (2) ということになるが、大人になった時点かどこかで息子娘は自己の身体の恒常的な使用を行うため、時効取得 (1) が発生して自己所有権を手に入れてしまうのではないか
もしあとの所有者が明確で移転が容易に行えるなら、「あるものを一定期間だけ所有する(時間的部分を所有する)」という概念を導入することに不便はない気がする
幼い王に代わり継承法の厳格な適用 (2) に反して摂政が実権を握った場合、摂政による時効取得 (1) が発生したあと王が大人になり親政を開始したとき再び時効取得 (1) により所有権の移転が発生するのか?
「王は強かったので貴族に対する権力を強めました (1)。王は死に、権力を子供に継承しました (2) が、子供は弱かったので、貴族がまた権力を強めました (1)。」
Robert Nozick "How Liberty Upsets Patterns"
(1)と(3)の対立
もし現実の力関係がまさに衝突を招く形になっていたらフォーマリストはどうするのか
e.g. アナーキー状態、古代ギリシャの民主政
「現実の力関係」は軍事支出などで変化させられるので、「関係者の行為の影響下にあるもの (世論など) からは独立に決定」するわけではない (だから(1)はあくまで初期分配を与えるのには使えても、継続的にそれをルールとして使うことはできない) という問題もある
(2)と(3)の対立
王位継承法は順位が先の者の殺害によって継承順位が変化するので、仮に安定的な法に則って権力の移転が行われているとしても衝突をもたらす (16世紀のイングランドの継承権争いのように)
現状が民主主義で民主主義に基づいて権力の移転が行われているとしたときは (2) には反しないが、世論の操作・支持者を集めることで係争の結果を左右できるため (3) 衝突の回避には反する
(2)の内部の対立
「前の権利者の許可を経ない移転は不正」という権限原理っぽいのとは違う、継承法のようなものでも認めている気がするので、(2)の内部で対立が発生しうるかも
もし現在の王自身が女性の王位継承を認めないサリカ法を改正しよう、これからは男女同権で行く と言ったらどうなるのか
時効という概念を使用しているわけではなく、0秒でも占有したら権利が認められる (0秒時効取得?) と言っているように捉えられる気もするが、それだと盗むインセンティブがつよくなってしまう
現状の所有権配置を認めてその後は交換によって改善していくことで効率的になるとか、そういう議論がされているわけではなく、単に争いが防げるからいいとしか言われていない
ヤーヴィンは所有権をその1つの条件として生まれる巨視的な市場の構造 (競争を通じて交換価格が調整されるメカニズムとしての市場システム) を見るのではなく、個々の所有権そのものによって生まれているインセンティブ (争いを抑止すること、どうせ取られるからと所有物を駄目にすることなく扱うインセンティブを与えること) のゆえに所有権を尊重している気がする (つまり以下でいうpro-business?)
ミクロ経済学よりさらにミクロな単位で考えているというか
ピコ経済学、というのは違う意味だけれども
Those who are pro-market are enthusiastic about capitalism because they understand the virtues of the price system. They know that a properly structured competitive market is the most effective institutional arrangement for ensuring that resources and labour flow to their most productive employment.
The key to their endorsement, however, lies not in the magic word “market,” but rather in the qualifications that precede it. The pro-market camp believes that the virtues of private enterprise lie not in the system of private property per se, but rather in the competition that a properly structured market induces among enterprises. It is this competition that drives innovation, forces productivity gains and, most importantly, generates lower prices for consumers.
Those who are pro-business, on the other hand, are less concerned about the structure of the market, and are more impressed by the incentives that ownership creates. Thus they tend to think that the virtues of private enterprise lie in the business culture that it promotes within organizations, or in the entrepreneurship that it motivates.
フォーマリズム自体としては、交換にも、競争にも言及がない
コースの定理 or 厚生経済学の第一基本定理みたいなものから同じように、「所有権が誰にあるかは重要ではなく、誰かに保証されていればいいので、まあ現状の占有者に所有権を保証しておけばいいだろう」という結論を導く人がいるかもしれないが、フォーマリズムはそのような議論とは異なる。交換の話はしていない。
わたしのこの記事の古いバージョンではそこがごっちゃになってた
(そういう議論をするためにはとにかくパレート効率ならいいということを言わなければならないが、それは怪しい)
所有権の機能として、争いの回避とは別に、生産のインセンティブを与えることができる、交換や競争市場を通じて効率的な分配ができる、などがあるけれど、後者の機能は争いの回避の帰結なのか、また別の観点なのか
たとえば著作権を考えると、生産のインセンティブにはなるけど、争いの回避という機能はないから、別と考えていい?
所有権の各機能は、統一的に理解することができるのか、それとも偶然複数の別々の機能を持った制度なのか
著作権についてのヤーヴィンの考え:
mtraven,
Basically, what formalism tells me is that copyright is a bad idea :-)
This is because formalism tries to align legal powers with those who physically possess these powers, and since any teenager in 2007 has the power to pirate like a fiend, trying to stop him will inevitably generate informal politics.
Admittedly, this was hard to anticipate. But then, copyrights were supposed to have a limited term, once...
参政権・社会権のようなものであっても、現状において実効性を持って存在するなら、それはある種の占有状態とみなせ、所有権に変換されるべきという結論を導くはずで、じっさいに社会保障についてフォーマリズム的に所有権に変換する、みたいな話もしている
リバタリアンは自由権を自己の身体に関する所有権 (自己所有権) から導こうとしているけれど、フォーマリズムはそれを進め、参政権や社会権も所有権に包括する?
所有権の概念を拡張してそういう色々なものを含むようにしたなら、もはや「所有権」ではなく、もっと抽象的に「権利」とでも呼べば良くないか、という気もする
ネオカメラリズムにおける株式は、所有権化された参政権とみなせそう
所有権の設定ルールを恣意的に定めて良いなら、再分配というのは現在の占有者 (?) から真の所有者に返してるだけというふうにすることができる (家主が家を借りている人からお金を取るのは窃盗ではないのと同じように(それはまあ貸す契約があったからだけど、そもそも貸すときに許可を取るのがその家主なのには、所有権が根拠にある))
親が子供の配偶相手を決められる権利がある社会ではフォーマリズムはそれを追認しそう
どんな現状の権利ルールも追認するということだから
貴族制、身分制
奴隷制
人種に基づく特権
切捨御免
資源や権力を決める上でフォーマリズムを使うのはまだいいけど、個人的自由の領域にまでそれを適用するととてもリバタリアンやその他の自由主義者からは認めがたい結果になりうるのでは
狭義の自己所有権も認めないということになるので
フォーマリズムはリバタリアニズムから自由を抜いたものなのか
ここで、「人間は事実として自己の身体をコントロールせざるを得ないので、別の人に他人の身体をコントロールさせる権限を与えようとすると、2人の人が同時にコントロールすることになり、2人の欲求が異なる場合、衝突に導く」とすると、フォーマリズム的観点からも狭義の自己所有権を擁護することができる可能性がある (ハンス・ハーマン・ホップが自己奴隷化契約を否定するときの論理)
But who owns what scarce resource as his private property and who does not? First: Each person owns his physical body that only he and no one else controls directly (I can control your body only in-directly, by first directly controlling my body, and vice versa) and that only he directly controls also in particular when discussing and arguing the question at hand. Otherwise, if body-ownership were assigned to some indirect body-controller, conflict would become unavoidable as the direct body-controller cannot give up his direct control over his body as long as he is alive;
また、デイヴィッド・フリードマンも、事実としての自己の身体のコントロールという点から自己所有権を捉えている。
Self ownership is both a moral axiom and a technological fact.
「実際に戦えば勝つと予想できるという意味で実効力のある占有権・権力 と、制度的なステータスとしての所有権が一致すべき」というフォーマリズムの主張は、ASD者のためのユニバーサルデザインな社会を目指している可能性がある (?)
J. S. ミル は私有財産権のもともとの起源として「暴力を抑え、言い争いを終わらせること」を目的として、最初の占有者に法的な効果を与えてできたのであり、効用への考慮や権利の決定、個人の努力の保護とは無関係だったと言っている。
J. S. ミル『政治経済学の原理』「所有権について」
制度としての私有財産は、その起源を、確立されたときにその維持を嘆願するような実用性の考慮のいずれにも負っていない。無骨な時代には、歴史上からも、また現代に類似する社会状態からも、(常に法律に先立って設置される)法廷が元来、権利を決定するためではなく、暴力を抑圧し、争いを終結させるために設置されたことを示すのに十分なことが知られている。この目的を第一に考え、最初に暴力を開始した者、つまり他人を所有権から追い出したり、追い出そうとしたりした者を加害者として扱うことで、先占に法的効力を与えたのは当然のことである。こうして、民政の本来の目的である平和の維持が達成された。一方、すでに所有している者に対しては、個人的な努力の成果でないものであっても確認することで、そのようなものについては保護されるという保証が、彼らや他の人々に対して付随的に与えられたのである。
TODO: ホッブズ、ヒューム、スペンサー・ヒース、デイヴィッド・フリードマンの所有権論についても調べる
合理的なプレイヤー (ここでは国家) 同士で戦争が起こるのはなぜかということについて考察している
主権の対称的理論
主権は所有権 (衝突をなくす方法) の一種であり、その点で所有権と共通である
政府を、(現状のアメリカや日本なども含めて) 国土を所有する巨大企業とみなす
ayu-mushi.icon直接的な意味で所有権と主権が同一視できるか。土地を持っているからといってその土地の上にいるひとを逮捕して拘束したりする権利があるというわけではないだろう。なので、国土の所有と主権が同一視できるのかには疑問がある。ただ、自分の土地の上に不法侵入している人を追い出す権利は所有者にあるはずなので、追い出されないことと引き換えに一定のルールに従うことに同意させることはできそう。その意味では所有権は政治権力に変換しうる。
税金は地主が家賃を払わない人を追い出せるのと同じ理由で正当化される
しかしその土地で生まれた人を不法侵入者として排除できるのかは不明
テキサスで私有地への不法侵入者を撃ち殺せるのと同じで、所有権をかなり強い権利と捉えれば、直接的にも主権と同一視できるかも
リバタリアンは所有権を強い権利と取りがち
民主主義における税金が、分配される人が法によって明確に定まっているわけではないので、税収の分配をめぐって争いが生じるという点を批判する
主権株式会社において株式によって明確に分配先が決まっているなら良い
table:comparison
私有財産権/主権 認める 認めない
認める フォーマリズム リバタリアニズム
認めない 共産主義 左派アナーキズム
みたいに比較できるかもしれない。共産主義でも認めないのは生産手段の私有だけだろとか、革命を起こすということは主権をフォーマリズムの意味で認めているわけではないだろとか、リバタリアンも無政府資本主義以外は主権の存在自体は認めてるだろ というツッコミはある。(共産主義と左派アナーキズムについてはよく知らない)
Samuel Freeman "Illiberal Libertarians : Why Libertarianism Is Not a Liberal View" によると、ロスバードやノージックのリバタリアニズムは、政治権力が私的な契約のネットワークに根拠を持つとみなす点で、リベラリズムが歴史的に反対してきた封建的な権力にむしろにている。封建制においては権力は私的である。これはリベラリズムが政治権力を不偏的に公共の善のために使われるものとみなすことと対照的である、らしい。
ヤーヴィンのものでは、権力の根拠は契約ではないけれど、公共のためではなく私的なものという点では似ている。
国土を所有するのは、ノージックらのリバタリアニズムにおいてはロック的但し書きに反するのかな?
Samuel Freeman "Illiberal Libertarians : Why Libertarianism Is Not a Liberal View" によると、仮にすべてを所有するようになったひとがいるとして、それが無主物取得による場合はロック的但し書きに反するけれど、それが譲渡によるものである限りは、ロック的但し書きには反さない (ロック的但し書きは無主物取得に関わる制約なので) と言っている。
たしかにそうなりそう。
ヤーヴィンは「政治権力を所有権のようにみなす」という点を開拓したけど、その逆である「所有権を持つ人はそのことによってある意味で政治権力を持っている」という方は十分に注目されていないかもしれない
フォーマリズムにおいて、「仮に政府が税収最大化していた場合、現状より損する人 = 現状が最大化水準より得である人」は、政府が税収最大化のために恩賜的民権のようにして認めているというのとは違う、もっと強い意味で所有権を持っているのであり、それらの人はある種の政治権力を持っているものとして分析できる (関税によって保護されている生産者のような) のでは
法によって厳密に帰属が決まるという意味では「権力」的ではないけれども、必ずしも政府の好きにできないという意味ではある種の権力と考えられるのでは
You can model any non-revenue-maximizing state as a revenue-maximizing state that makes dividend payments to those it would otherwise tax.
政府からお金を受け取る人だけでなく、そのような低い税から利益を得ている人も、ある意味で現在の政府の株主 = 所有者的な役割を持っている
ヤーヴィンの国家観は政府を社会契約的なものとしてみるのではなく、一部のエリートによる所有的なものと見る点で、フランツ・オッペンハイマーの国家征服説や、マンサー・オルソンの定住型盗賊理論、また国家を特定の支配階級の利益を代表し搾取の手段と見るマルクス主義の階級国家論に類似している
contractarian theory of the state vs. proprietary theory of the state
ヤーヴィンは少数者によるエリート支配が組織の常だとする、イタリア・エリート学派 (ガエダーノ・モスカら) の影響を受けているらしい (ジェームズ・バーナムを介して)
イタリアエリート学派: 政治では常に、少数の支配階級が支配する。支配階級は力だけでは支配できないので、欺瞞も使って支配をする。支配階級が権力を維持するための信念を political formula という。たとえば王権神授説。
マルクスのイデオロギー論?
「政府」の起源をcoordinate(外部性への対処など)に置く仮説とエリートによる搾取に置く仮説について、
ティグリス=ユーフラテス川の流路変更という「自然実験」を通して検証。
マレー・ロスバード、フランツ・オッペンハイマー、マンサー・オルソン (中国の軍閥を国家形成のモデルと考えた)、カーティス・ヤーヴィンが支持する (と思う) 国家の起源にかんする征服説が、自然実験でテストされていた
これは起源の話で、現在の話はまた別かもしれないけれど、国家の本性について興味深い示唆を与えてはいそう
脚注10 This distinction into two clusters is known as “contract” and “predatory or exploitation” in economic history
(North 1979), “voluntaristic” and “coercive” in archeology (Carneiro 1970), and “integration” and “conflict” in anthropology (Service 1978).
…Rothbard actually recognized the problem and argued that a naive acceptance of existing property titles is logically equivalent to supporting absolute monarchy.
ロスバードは実はこの問題を認識しており、現状の所有権権原を素朴に認めることは絶対王制を支持することと論理的に等しくなってしまう、と論じた。〔まさしく!!〕
Let us illustrate with a hypothetical example. Suppose that libertarian agitation and pressure has escalated to such a point that the government and its various branches are ready to abdicate. But they engineer a cunning ruse. Just before the government of New York state abdicates it passes a law turning over the entire territorial area of New York to become the private property of the Rockefeller family. The Massachusetts legislature does the same for the Kennedy family. And so on for each state. The government could then abdicate and decree the abolition of taxes and coercive legislation, but the victorious libertarians would now be confronted with a dilemma. Do they recognize the new property titles as legitimately private property? The utilitarians, who have no theory of justice in property rights, would, if they were consistent with their acceptance of given property titles as decreed by government, have to accept a new social order in which fifty new satraps would be collecting taxes in the form of unilaterally imposed “rent.”
架空の例でこの問題を表してみよう。かりにリバタリアンの扇動と圧力が高まり、政府とその色々な部門が廃止に追い込まれたとしよう。しかし、彼らは巧妙な策略を編み出す。ニューヨーク州の政府が廃止される前に、ニューヨーク州政府が、ニューヨーク州全体の土地全体をロックフェラー家の私有財産にするという法案を可決する。
マサチューセッツ州は同じことをケネディ家について行う。他の州についても以下同様。
政府は廃止され、税と強制的な立法が無くなることが宣言されるが、ここで勝ったリバタリアンはジレンマに直面する。
リバタリアンは、その新しい「私有財産権」を正当な財産権と認めるだろうか? 財産権についての正義を定める理論を持たない功利主義者〔ここでは功利主義的リバタリアンと思われる〕であれば、それが政府によって宣言された所有権と一致する限りにおいて、55人の州知事が一方的に押し付けた「地代」という形で税を集めるという、新しい社会秩序を認めざるを得ないだろう〔ここで功利主義は恣意的な財産分配を非難しないという想定をしているようだが、功利主義者からすればそんなに偏った所有権の分配は (限界効用逓減の法則から) 住民の幸福につながらない、と言って拒否できるような気がする〕。
リバタリアニズムは現状の財産の分配にはそこまで文句をつけないのに対し、権力の分配には大いに文句をつける。一方、フォーマリズムは現状の財産の分配にも権力の分配にも文句をつけない。
他の論者も、政府の領土に対する所有権を考えることで通常のリバタリアニズムの議論が崩壊するというような話をしている
Q. Extortion by the state is no different than extortion by the Mafia.
A. This is a prize piece of libertarian rhetoric, because it slides in the accusation that taxation is extortion. This analogy initially seems strong, because both are territorial. However, libertarians consider contractual rental of land by owners (which is also fundamentally territorial) ethical, and consider coercion of squatters by those owners ethical. The key difference is who owns what. The Mafia doesn't own anything to contract about. The landowner owns the land (in a limited sense.) And the US government owns rights to govern its territory. (These rights are a form of property, much as mineral rights are a form of property. Let's not confuse them with rights of individuals.) Thus, the social contract can be required by the territorial property holder: the USA.
There's no such thing as rights to govern territory!
You'd have to ignore an awful lot of history to claim this sort of PROPERTY didn't exist. The US government can demonstrate ownership of such rights through treaty, purchase, bequeathment by the original colonies and some other states, and conquest. The EXACT same sources as all other forms of land ownership in the US. Also note that governance rights are merely a subset of the rights that anarcho-libertarians would want landowners to have. For example, insistence on contractual obedience to regulations and acceptance of punishment for violations.
リバタリアニズムと封建主義との類似性
親が子を所有するというシステムを例に、リバタリアンが言う私有財産権システム (権利が定まっており、譲渡ができるシステム) を持つということと、自由を持つということは一致しない ということを主張してる
IIRC, this is exactly the charge that Susan Okin levels against Nozick in “Justice, Gender, and the Family,” with the (small) difference that mothers, in particular, would necessarily owe their children, who are (quite literally) constructed out of materials and the mother’s labor.
Private City (民営都市) のリバタリアニズム上の扱いを議論するさいも、同じような議論がされている。
Charter cities fall into an awkward crack in libertarian ideology. Almost every libertarian agrees that you can make rules (even arbitrary rules) about what people can do on your own property, and anyone who wants to stay on your property has to follow your rules. But what’s the difference between that, versus a government “owning” its territory and making rules for its citizens? In practice the difference is that going in someone’s house - or even their golf course - is a choice you made, and they have clear title of ownership. But being in a country happens involuntarily, and the President doesn’t “own” America in the same way an ordinary person might own a house.
But if someone did own an entire city, and you chose to be in that city, theoretically they should be able to make whatever laws they wanted, and not even the most zealous libertarian could protest. The issue hadn’t really come up before. But here we are.
Philosophy bear:
"So for example, when you buy land in Próspera, you’ll have to sign a Covenant Restricting Vice Industry Uses - ie you can’t turn your house into a joint brothel+casino and do unethical medical experiments in the basement. Even the strictest libertarian has to admit this is fair; if you sign a contract, you’ve got to follow it. But you can tell HPI plans to have the town be ship-shape, well-organized, and family-friendly, instead of the sort of Wild West vibe some people associate libertarianism with."
My emi-serious suggestion. Democratic governments should just claim all land in their jurisdiction as their property, and make it clear that it not owned, just leased out on conditions. The governments themselves should claim to be cooperatives jointly owned by their citizens. Then functionally equivalent rules to the property and tax laws that currently exist would count as a libertarian utopia.
You can object that if they were to do this now, they would be stealing the land from its current owners, and sure this would offend the libertarian ethic- but all the land in the world has been stolen at some point, and after a while, Libertarians seem content to let the claims of those the land was stolen from be extinguished.
So presumably, if the US were to declare itself a kind of corporation owned by its citizens and expropriate all the land, in a hundred years it would count as a libertarian utopia.
Perhaps this tells us that the libertarian concept of freedom is excessively formal/procedural and not substantiative enough.
外部性
政府が領土を所有するとしたことで、一見最小国家論的なリバタリアニズムに比べ外部性などへの解決ができるように見えるが、結局のところできるとしてもそれは我々の世界では国が領土を占有してるからそうなるという幸運な偶然にすぎず、もし仮に個人が無敵で各人が自身の所有物を防衛できるような世界では、フォーマリズムはそれらの個人が財を占有しているから正統な所有者だとして追認し、仮に外部性が発生しても文句をつけることはないだろう
つまり、最小国家論的なリバタリアニズムが直面する外部性などの問題に正面から答えたことにはならないと思う
じっさい地球温暖化のような国際レベルでの外部性への対処は無理だろう
いや、最小国家論的リバタリアニズムが直面するのは正の外部性 (自分の利益につながる行為の主体の許可を得ず利益を受ける) だけであって、負の外部性 (効用が減る主体の許可を得ずに効用を下げる) は所有権侵害とみなすことで解決できる
ノージックのように、あくまで権利があるのはそれがもたらす利益についてであり、その財産がもたらすのと同等の効用を与えるだけの補償が行われるならば侵害しても許容される、というふうにすれば外部性の問題にも対処できるけど
フォーマリズム的にも、補償が行われば争いが起きにくいという意味でノージックの発想を取り入れることができるかもしれない
これは人がそれをめぐって争うものは権利ではなく利益であるという前提、および人が他の人にとってなにかが持っている価値をわかっているという前提がないと補償で納得しない (本当に合意を取らない限り) だろうけど
所有権はあくまで利益に対する権限であるから補償すれば侵害してもいいという捉え方は、組織所有論における所有の考えと相性がいいかも (株主は会社の資産に間接的に口出しはできるだろうけど、主眼にあるのはそこから得られる利益な気がするため)
所有と経営の分離
フォーマリズムと嘘
ヤーヴィンは、おそらく誤りがあると、どちらも自分が勝てるという誤信念をいだき、衝突に導くという観点から、現状の権力配置についての正確な信念が重要であり、嘘は良くないとしている。が、それを一般化して、フォーマリズムは一般に嘘に反対するかのように言っている気がする。
現状の権力配置についての虚偽がフォーマリズムに反するだけでは?
虚偽によって争いが生まれる場合と、虚偽が争いを抑止している場合が考えられる気がする
ヤーヴィンの主張は、「争いになったときにどちらの主張が勝つか」について誤った観念があると争いの原因になるというもの
「もし戦ったら、どちらの主張が勝つだろうか」についてだけ人々が正しい観念を持っていれば、どちらかの主張が勝つように保証しているところの具体的な社会実装についての誤った観念については、誤っていても問題ないか、むしろ誤ることが奨励されることすらあるかもしれない
しかし張り子の虎であるような場合で、強いとされているあの勢力は実は弱いんだと知られないほうが争いが避けられる、という場合はある気がする (植民地が次々に独立したのは、植民地支配者側は実は弱いということが実際の戦いを通じて分かったからかもしれない(知らないけど))
ヤーヴィンはフォーマリズムは真理を語ることに価値をおくと言っているけど、フォーマリズムにおいて、真理を語ること自体がfrictionを生み出す場合の道徳的扱いってどうなってるんだ
「もしfrictionが虚偽によって防がれる状態であってもfrictionを避けるべき」というフォーマリズムの理念と考えるならば、「現状の占有状態に宗教的正統性を与える宗教を信じるべし / 疑わないようにする」はフォーマリズムの理念にかなっている
占有状態が何かしらの共有信念によって維持される状況では、その共有信念をむやみに疑わないということがfrictionを防ぐという理念に叶うはずだ
それはあたかも、「赤信号では止まる」という共有された信念を疑わずに受け入れるかのような (赤信号の意味は人間社会から独立した事実に関する信念とは誰も思っていないが、赤信号で止まらないと罰を与える神々や妖精を信じている人々を想像してみる)
問題: 王権神授説によって現状の王権の正統性が承認されている社会において、フォーマリズムの支持者は王権神授説を認めるべきか? それとも真理を告げるべきか?
欺瞞による支配より、物理的な力を背景にした支配の方が望ましいと考えていそう
そういう意味では王権神授説が信じられている世界でもヤーヴィンはそれに反論するのかもしれない
形式主義法学との関係
おそらく形式主義法学は法の予測可能性を強調する立場だからフォーマリズムと共通点がある
法の予測可能性や誰かの意思による変更の容易でなさ を強調するフォーマリズムに対して、法の予測不可能性や意思による変更の容易さ (恣意性) を強調 (し、形式主義法学を批判する) する批判法学との比較で捉えると、納得できるような気がする? 法形式主義は司法裁量を否定する
批判法学は「法は政治だ」というが、フォーマリズムは法は (裁判などの係争の) 勝ち負けが予測可能で(あるべき)であり、政治は予測不能性が特徴なので、法と政治は対立するものとして捉える
<嘘っぽい> 形式主義法学は、判事は、立法府がするような、法を決める決定をしてはならないということを強調する。アメリカに特徴的な、通常立法府に任されること (政策形成) まで司法がやっていくというスタイル (司法積極主義) に対する彼の批判意識が形式主義法学に惹きつけられたのだろうか? </嘘っぽい> いや、形式主義法学と司法積極主義はかならずしも対立するものではなく、Lochner v. New York判決は形式主義法学にもとづく司法積極主義とされているらしい
むしろ形式主義法学に反対したニューディール判事のほうが、消極主義とも考えられるっぽい
judicial review?
ニック・スザボ はむしろ最高裁判所の権限の強さを所有権的な権力の一形態としてむしろフォーマリズムと親和的なものとしてみなし、ヤーヴィンとは反対に (?) 扱っているっぽい Supreme Court tenure is the closest thing we have to political property rights and the resulting long time horizons in this country.
しかし、legal formalismと対立するlegal realismの立場に立つオリヴァー・ウェンデル・ホームズも法廷の判断の予測可能性、その予期によって行動を調整できること、を重視していたそうである (『プラグマティズムの歩き方』シェリル・ミサック p.176)
予測可能性、予期による行動の調整というのは、フォーマリズムに通じる考えに見える
政治的な理由で判事を選んだりするより、どちらの政党も判例や明文法を尊重する方がどっちの政党にとってもwin-winというような考えっぽい?
ヤーヴィンがフォーマリズムと似た考えとして挙げているBruno Leoniは、議会が立法するのではなくむしろ裁判所が当事者間の調停を通してボトムアップに判例から法が出来上がっていく方がいいみたいな考え? っぽいので、それだと (少なくとも判例が固まるまでは) むしろ司法の裁量は大きくなるのでは。
"法と経済学"研究では判例法の効率性が言われるけれど、Gordon Tullockはそれに反論しているらしい
フォーマリズムから見た民主主義
ヤーヴィンは、フォーマリズム的にも民主制を認めざるをえない場合があるかのように言っている。
たとえば
そこで、フォーマリズムから見た民主制について考える。
ある希少資源についての争いが起こった時に現に軍事的に誰が勝利するかあらかじめわからないような状況を考える。
// (この、民主主義が決まった量の資源を分配する問題を扱っているとする前提が怪しい)
このような状況では、フォーマリズムにのっとって現状の占有者に所有権を認めるということはできない 。現状の占有者などいないから。
その場合には民主制を認めるしかない。
(また、本当に人民が政府を占有、実効支配している状況であれば、時効取得の考えでも、民主主義を認めなければならない(?))
それは勢力間の限定戦争 ――内戦の代わりの妥協案としての争い―― としてだ。
動物に喩えると分かりやすい。
動物が、明確な縄張りの境界や順位制が無い (明確にどちらが物理的に強いということもない) 地点で希少資源 (配偶者など) をめぐって争っている状況を考える。
そういう状況では動物はお互いを殺してしまうほど争うのではなく代わりに儀礼的な争いで順位や資源 (配偶者など) の占有権を決める。
Smith & Price (1973) "The Logic of Animal Conflict"
これは「現実の力関係と形式的・制度的なステータスが一致している」という意味でのフォーマリズムにおいては民主主義が認められる場合があるというだけで、「衝突の最小化」の意味におけるフォーマリズムが民主主義を認めるということではない
(このモデルでは政党と支持者が区別されていないが、それはいいのか。
人口Aは政策から得するが、人口Bは損する、というごく単純なモデルで考えればまあいいのでは)
それと同様のこととして、民主制は、軍事的な力を象徴的な力に変えてそれを示威するのみにとどめることによって、内戦を防ぐため有用だと言える。
シカが角同士で突きあってお互いの強さを示しあい、角で肉体を貫くような殺し合いの代わりとするように、政党が支持者の数を示威して争い (内戦) の代わりとするというわけだ。(動物の儀礼的争いにたとえる類比はヤーヴィン自身のものではないが彼の見方をよく表せていると思う)
これはヤーヴィンが「政治」と呼ぶものにもうまく対応する。(ヤーヴィンは政治とは戦争の延長であり、政治と民主主義は同義である、よって民主主義は戦争の延長であると主張している)
しかし、その動物の儀礼的な争いのようなものは現代では必要ないというのがおそらく彼の見解だ。なぜか?
軍事的には勝敗は事前に確定したようなものなので、内戦を防ぐためといって民主制を導入する必要はないと。
主権国家が現代で安定なのと同じ理由で君主制も安定化可能だろうというわけだ。
しかし、どうだろうか? 情報技術の発展は必ずしも権力側に有利に働いたと言えるのか?
香港のデモ側がどうぶつの森で通信したりできるというのは、昔の革命勢力に手に入る手段ではなかったのではないか。
だから、技術の方向は、情報技術も考えるとむしろ革命側に有利ということもありえる。(経済的にも現代では市民が強いかもしれない)
天安門事件はヤーヴィンが民衆の弾圧をして権力を安定できる例として挙げている例だが、中国共産党が民主制でないのに (革命されず) 権力を保てているのは、情報統制しているからなんとかやれているだけかもしれない。
というか、中国人の政府支持率は高いはずなので民衆の信頼を勝ち取ることなしに軍事的に支配を達成している例として扱うことはできないのではないか (因果関係として、軍事的支配が民衆の信頼に優先する例ではあるかもしれない)。
マキャベリ: 人心掌握は砦の整備より重要
ただ、反乱側有利に見える現象は単に中国とかの政府/軍内部での亀裂があるからに過ぎないのかもしれない。
ヤーヴィンは植民地解放戦争で西洋諸国が敗北したのは西洋の政府内部の亀裂の問題であって軍事的に植民地側が強かったわけではない (世界大戦で疲弊してたから軍が弱かったとか先例が出来たことで実は最初から弱いことに気づいたとかではなく、亀裂がなくてやる気があれば勝てた) と主張している。
And the reason the "liberation movements" had a chance of success after World War II, and not before World War II, has - in my opinion - very little to do with population growth or other "inevitable" developments, and very much to do with military and political events in the Northern Hemisphere.
Given these events, "liberation" was in fact inevitable, and those Optimates who recognized this and surrendered, rather than those who chose to fight, are praiseworthy. But I think this is a different meaning of "inevitable" than the one you had in mind.
ヤーヴィンは、武器を暗号ロックした軍隊を持つセキュアな絶対主権者であれば、反乱者を簡単に鎮圧できる、と主張するだろう。
被統治者は支配階層に比べ組織化されておらず、協力行為問題に陥るから、反乱を押さえ込むのは簡単だ、というのは合理的選択モデルに即した結論でもある。(cf. ゴードン・タロック) (じつはフリーライダー問題ではない可能性がある…)
(しかし、民主主義=戦争 という比喩なら集団内ではフリーライダー問題が解決できることを前提していることになる。
単に、政策について調べたり投票所に行って投票したりするさいのコストが少ないとでも仮定しておけばフリーライダー問題を無視できるのでは (これはそうstipulateするというだけだけど…)
)
ヤーヴィンの「選挙で公選された政治家が公務員に対し強いコントロールを持っている真の民主主義では、政治的分断や内戦のような状態になる」という仮説は各国の政治家の公務員への権限を調べ、政治的分断の度合いを比較することによってテストできるのではないか。
もしかしたら、ヤーヴィンがこの考えの根拠としていたのは、対立するような部族というものが存在する強いイラクやアフリカの民主主義についてであって、部族が重要でない国では違っている可能性がある。
(追記: ヤーヴィンの考えではアメリカでも「部族が重要」のはずだった。)
ヤーヴィンは、イラクやアフリカの、部族が利益誘導する民主主義を民主主義の本来のあり方と考えていると言えそう?
そのようなあり方なのは、統一的な国民意識が存在しないことが理由と言われることがあった気がする。
一方、ヤーヴィンの立場は、アメリカ社会もイラクやアフリカの部族対立と似た対立構造を抱えており、それが覆い隠されているのは、統一的な国民意識の存在などではなく、利益誘導を可能とするスポイルズ・システムの出現が、公務員の資格任用制によって妨げられていることや、報道機関が行政組織に味方した世論を形成しているからにすぎないというような。
参考記事
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